そうだ嬉しいんだ。生きる喜び。

新島ジョー先生の言葉に「Live To Learn Learn To Live」って格言があるんですが、あれってどうなんでしょうね。いや、ちょっと今日は思うところがあって。
お昼ごろ大学の食堂に行ったのですが、そのレシートに「Live To Eat Live To Eat」って英文が小さく印刷されてあって、おやおやおや、と思いました。
Live To Eat Live To Eat・・・。
生きるために飯食うし、飯食うために生きるのだ。
けっこう、言えますね。あてはまりますね。
ジョー先生の「生きるために学ぶし 学ぶために生きるのだ」って言葉も、また然りです。

でも、たとえば「生きるためにオナニーするし、オナニーするために生きるのだ」とか言ったとしても、「うん、まあ、あるよね」ってなりますね。「生きるために死にたくなるし、死にたくなるために生きるのだ」とか、ネガティブ概念をくっつけても、意外にパンクなフレーズができあがります。

だから、つまり何が言いたいのかって言うと、「生きるために○○するし、○○するために生きるのだ」っていう文には、何を入れても、けっこう意味のあるフレーズになってしまうんですね。・・・これって、けっこう怖いことですよ!

だってそれは、「生きる」ってことがすごく曖昧なものだってことだからです。
これこれするために生きるのだ!っていう絶対的な正しさってものが存在しないってことだからです。

そんな中、「学ぶために生きるのだ!」って筋を通した新島先生は、本当にえらいと思います。なかなかできることじゃありません、筋を通すことは。金剛番長か、新島先生ぐらいのレベルじゃないと無理です。

でも、「学ぶために・・・」ってのは新島先生の場合であって、新島先生でない僕にはあてはまりません。そりゃ、たしかに学ぶために生きれたらどんなに素晴らしいことかってことぐらい、馬鹿の僕にだってわかりますよ。でも、なんかムカつくじゃないですか。建設的で。

こう、目がキラキラしているような人とは、お友達になれないです。その目に映っている自分がやりきれなくなるからです。あと、まあ、単純にムカつくし。あ、関係ないけど、僕の弟は目がキラキラしている側の人間です。いつか何らかの形でヘコませてやりたいけど、なかなかそんな機会が訪れません。

ルサンチマンが果てしないです。「ボーン・トゥ・キル」って、これは『フルメタルジャケット』からの言葉なんですが、まあ殺しちゃいけないけど、そういうインパクトのあるフレーズが僕の人生にもないものかしら。
うーん。高望みです。

「○○するために生きるのだ」の、○○に入れる言葉を手に入れるのが、人生の課題なんじゃないかな、って思います。思いました。今日。
それを選ぶのは自分自身なんですよね。いやはや。

アンパンマンの歌を引用してもいいですか?
「何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!」

・・・重い。

ああ、でも、僕がこんな風に呑気に人生の意味とか考えている間にも、みんな一生懸命、生きています。みみずだって、アメンボだって、みんなみんな生きています。手のひらを太陽にかざしたら、どんなに心がはち切れそうでも、僕の血潮は真っ赤に流れているのです。
やっぱり、「死にたくないから生きている」なんて、これは僕が尊敬している人の言葉なんですが、そういうものじゃないかなって気がします。「死にたくない」ってのは大事です。