学園祭の日 

きゃー。立派な人間になりたくて、でもなれなかった人間の行く果てはどこだろう?
二十年生きてしまったら、自分を変えることができるチャンスは残っていないものだろうか。
人生ってのは観覧車のようにグルグル回っているものだ。窓に映る景色はそのときしか見れない一度きりのもので、でも大切な瞬間ってのは気付いたときには手の届かない場所にあるんだ。
僕は今まで一体どれほどの景色を見ないまま通り過ぎてきたのだろうか。青春という二文字が過去のものとなりつつある今、僕は手を伸ばすことの無いままほったらかしにしてきた数々の出来事を、悔やむことしかできないのだろうか。
十一月末の学園祭で、サークルの先輩達が引退した。友達や後輩には思わず泣いてしまう者もいた。
もう三回生の先輩とはこれでお別れだと思うとふっと隙間風が通るような気もしたが、僕は「今までありがとうございました!」とおざなりの言葉をつくろいつつ、心の中はやっぱり冷めていた。
先輩達は皆涙を流していた。先輩達に感謝する気持ちに嘘はなかった。何気ないひと言に救われたときも多々あった。けれどそれならば何故僕は涙を流せないのだろう?周りとの温度差を感じる。置いてけぼりにされた気分というよりは、授業中にうんこを漏らしてしまった小学生のような気分だ。ばれてしまったらきっと大変なことになる。僕は大勢の人間からバッシングを受けるだろう。自分が偽っている嘘の表情が見破られてしまいそうな不安。まばたきを我慢して半分泣いているように見せかけていると、自分の中にある詐欺師の本性を改めて意識してしまう。
そういえばいつも僕はこうだった。涙を流すべきときに、泣いていた記憶なんて無かった。
卒業式のときも、親戚のおじさんが死んだときも、僕は無理やりにでもいいから泣こう、周りの皆に同調しようと頑張っている自分をどこかで感じていた。
涙を流すべきときに流せないでいるということは、ひょっとしたら僕は人間として最低限必要な資格というのを持ち合わせてないのではなかろうか。この感情のズレ。自分が普通の人間ではないという一つの証明のような気がする。
でも、僕は無感情な人間かというとそうでもなく、自分のことでならいくらでも泣けるのだった。高校時代は鬱状態でよく一人で泣いていたものだった。僕はつまるところは自己中心的なエゴイストだってことだ。
だから僕はこのブログの中で百万回は「僕」という言葉を使っている。他人のことなど考えきれない、甘えきった豚みたいな人間が僕だ。
自分の心の密室の中に閉じこもっていてはダメだ。閉じきったドアは開かれねばならない。自分を中心に考えていてはリアルな感情は生まれない。
観覧車の外の景色に眼を向けよう。「僕は」とか「自分は」とか言って、観覧車の箱の中を眺めているのは悲しすぎるから。知らぬ間に通り過ぎた大切な時間はもう取り戻せないけど、今、窓から見えるこの景色が、もしかしたら価値のある何かかもしれないことだし。
うーん、でも別れのシーンで気持ちよく涙を流せる人間ってうらやましいなー。ムカついたときにキレることができる人間ってのもうらやましーなー。ストレートに感情を出せる人間になりたい。そして感情に嘘がつけるのだったら、泣き女みたいに豪快に偽れる人間になりたい。